平常心是道(びょうじょうしんこれどう) 

〜あるがままの自分を受け入れる〜

平常心とはどんなものでしょうか?

何が起きても心がしっかりし、動揺しない事でしょうか?

しかしこのような状態をたもつのに、無理をしては逆に不自然になり苦しくなります。

あるがままの自分を受け入れる事とは、うれしい時は笑い、悲しい時は泣き、怒りや苦しみを感じる時はそのまま受け入れる事、背伸びをしたり、うそをついたり、それらすべてが、自分自身の表れとなる為、必ずあとで、後悔する事態がまっています。
平等心とは、あるがままを受け入れ、そのままを表現すれば、自然と楽になり、ストレス解消につながります。
人より劣る所があったって、かっこよく綺麗でもなくたって、それをしっかり受け入れ、逆に個性に変える事で、ありのままを受け入れた自分になれるはずです。

む事はありません、綺麗な心のほうが、よっぽどかっこよく綺麗なはずです。



脚下照顧(きゃっかしょうご)

〜わが身、わが心を見つめる〜

自分の足下をよくみつめなさいという意味 足下から固める、何事も土台が大切だという事ですね。

この場合人に対しての事ですので、靴を脱いで揃えましたか?という事から自分自身の心の状態を示す現われが行動に出てきてしまうといった意味となります。
乱れた心では靴も揃えられず、そろえたつもりが、曲がっていたりする物です。
何事も焦らず、一つ一つ心を落ち着かせて行動すれば、おのずとすべてがうまくいくはずです。

心が落ち着かないのであれば、逆に形から整え、一つ呼吸をおいて、身の回りの事からしっかり整える意識が大切です。

毎日の行いに、向上心と反省を繰り返し、いざという時は、足下をみつめて行動したいですね。



放下著(ほうげしゃく)

〜投げ捨てて自由になる〜

考えてモヤモヤしているより、いっそ捨てて自由になるという意味。

極端な話ですが、所属している会社の悩みごとがあったとしましょう。
人間付き合い、ノルマなど、そんな悩みを一揆に解決する方法として、辞めてしまおう。と考えるのがこの放下著。

しかし一つ大きな法則が必要です。
ただ、いやいやで辞めても、その先は決して開かれないでしょう。
しかし大きな希望、夢、など方向性をしっかりもっていた場合、必ずその後に幸運がまっています。

事業の内容を一つにまとめる事や、売上の為、喉から手が出るほど欲しくてしょうがない仕事を、大きなリスクが見え、手を引いたとたん、もっと条件のいい仕事が飛び込んで来たりします。

難しい事ですが、自分の夢や、ビジネスの方向性にまよわず進むには、日々の悩みを捨て、壁にぶつかったとき、あえて「放下著」の気持ちで向き合っていくと良いでしょう。



夢(ゆめ)

〜夢ははかないものか?〜

この世の物はすべて夢という思想。

世の中のすべての物は実態のない夢幻のようなもの、その実態のない姿を私たちは、現実と思い執着していますが、それは夢幻、泡影のようなものだとする。

迷いの数々の生活から目を覚ますためにも、この世のすべてを夢と知れ! という言葉 実際死んでしまったら、多くの資産やお金は持っていけない。

ならばそれらに執着する事が苦のはじまり。人間として、他人に幸せや喜びを与える助け合いの精神が本来生きる意味となってほしい。



知足(たるをしる)

〜欲をおさえる〜

欲しがる事をやめてみる事。

私たちの生活に、欲が尽きる事がありません。
欲があるから、争い(競争)がおこり、欲があるから、不平不満もおこるでしょう。

また、地位や名声も欲そのものでしょう。

いっそのこと、欲をおさえ、与えてみてはいかがですか?

すべての人が謙虚な「自利他利」の心になれば、世界も平和になり、騙される人もいなくなります。

バブル崩壊後、自己利益を追求した結果が、そろそろ裏目に出始めています。
互いが与えあい、協調、協力のもとに進める事に知足の意味が現在に調和するのではないでしょうか。
欲のままに生きていると、欲と道ずれとなり、お金で解決できない結末がまっています。



主人公(しゅじんこう)

〜自分の中の自分にあう〜

ここでいう主人公とは、本来の自己、真実の自己を意味します。

さて、今の自分とは本当の自分でしょうか?

例えば小学生の時、友達みんなから、おまえは運動神経が鈍いと言われていたとします。
しかし、高校になり体力もつき、実はクラスで1位2位を争う体格となっていたにもかかわらず、自分は運動が苦手と思い込み、本来の力が発揮できない事があります。

子供の頃のトラウマや、親に言われていた事をどこかで意識していて、本来の自分が発揮できていない事もあります。

もう一度本来の自分を見直す事で、本来の自分が発見できます。
それは、仕事における事とも同じで、働く意味では、本来自分のやりたい事をやる事が、ストレスを溜めない生き方にも繋がります。



本来無一物(ほんらいむいちもつ)

〜何もないと言う事〜

本来執着するものはなにもないという事です。

禅語の境地では、本来煩悩も、妄想も一切起きる事がないといった深い境地なのである。

死んでしまったら、煩悩も妄想もなくなってしまう。
であれば、欲も不平不満も、本来はなにもないものなのだという事。

草木のように、季節に対応して自分の一生を待つだけ。

現代でこのような生活は不可能だが、迷いや、悩みなど、いちど何もないという事から考えれば、少々落ち着くのではないか。



和光同塵(わこうどうじん)

〜慎みという美徳〜

自分の行いを自慢せず、謙虚に奥ゆかしく生きる姿です。

現代では、個性を出し、自己主張やアピールをして自分を立派にみせ、競争社会を生き抜く姿が、前向きで、好感が持てるように見えます。

間違いではありません。

しかし、本来生きる意味での、慎みや、謙虚さ、奥ゆかしさなどを忘れてしまっているように思えます。

自分の行いを自慢せず、謙虚に奥ゆかしく、困った人や助けを必要としている人たちに、ささやかでも役に立つ事、そんな事からも始めていきたいですね。



身心脱落(しんじんだつらく)

〜身も心もさっぱりと〜

執着心から逃れろという意味。

常に自分中心に物事を考えがちな生活が続きます。

たまには、自分の執着心を見直し、なぜそんなに執着するのか考えてみたいものです。

執着するからこそ、答えの幅も狭まります。

一度全てを捨て去り、執着のない、自由なところから考え直してみると、新たな方法や目的が見つかってくるかもしれません。



徳不孤必有隣(とくはこならずかならずりんあり)

〜自信をもってやりとげる〜

徳のある人は孤立することはないといった意味。

さて、難しい言葉ですが非常にいい言葉ですね。まず、真面目で硬い人は、近寄りがたく敬遠されがちであるが、その人の信念に本当の徳があれば、自然と周りが支持をしてくれるという事。

一生懸命学んだ事や、苦労して身につけた事が世間で評価されなくても、じたばたして、それまでの信念や主張をまげ、妥協をしてしまったら、なにもなくなってしまいます。

本当に正しいと信じるならば、妥協せずに努力を続ける事が必要で、意思堅固に道を求め続ければ、おのずから理解者や、協力者が現れるといったことです。



寒時寒殺閻黎(かんじはしゃりをかんさつし)

〜苦しみを受け止める覚悟〜

苦しみを乗り越える為には、その苦しみをしっかり受け止める事。

人は、暑い時は「暑いですねぇ」、寒い時は「寒いですねぇ」とつい言ってしまいます。

そのような時は、暑い時は暑さになりきり、寒いときは寒さになりきりなさいと言っています。

人の心も同じで、辛く苦しい時は、逃げるのではなく、しっかり受け止める勇気をもつ事が乗り越える為に必要な事なのです。



好事不如無(こうじもなきにしかず)

〜欲望は果てしない〜

楽しい事はない方が良いという事。

単にない方がいいという意味ではありませんが、沢山のお金を手に入れると、それが手放せなくなってしまい、贅沢な暮らしに慣れると、それらを守る為に必死になって、周りとの協調もとれなくなったりする事。

また、良いことを受け入れ、悪い事を避ける事もできません。

何事にも執着しない事、悪事を憎み、恨み、とらわれれば、必ずそこには相反する力が働き、自分が苦しむ事になります。

基本は執着しない、心おだやかでいる自然体が一番という事です。



随処作主(ずいしょにしゅとなる)

〜いつでもどこでも〜

よりどころを求めず真実の自己をみいだすという事。

いつでもどこでも、自分自身が何の束縛もされず、主体性をもって行動し、生きていくなら、何があっても、真実をほ把握できるし、洗脳されたり、巻き込まれたりする事もなく、自在な判断、動きができるという意味。

考え方や、進む方向を自分で決める事ができて始めて、人は自分自身の足で立っているといえるのです。



ロ卒啄同時(そったくどうじ)

〜相手の事を考えるということは〜

相手の身になって考えるという事が大切 ヒナが卵の殻の内側からコツコツと叩くことを「ロ卒(そつ)」と言い、親鳥が卵の殻の外側からつつくことを「啄(たく)」と言う。

「教える側と教わる側のタイミングが合わないとうまくいかない」といった解釈である。

子供と親のコミュニケーションの場合でも、今求めている事は、忙しくても、手が離せなくても、今であり、相手の身になる事が大切であり、そうしていかないと、うまくいくものもいかなくなるという事です。



一大事(いちだいじ)

〜今この時を大切に〜

まさしく今日、ただ今の心を大切にするという事。

人間の一生は、「どう生き、どう死ぬか」を考える事です。
一生という時間をどう生きるか、私たちはこの世に生まれた日から問われ続けるのです。

今日という日はまさに今しかありません。

この瞬間も、今日という日も、二度と戻ってくる事はない。日々を空しく過ごすのは、時を捨てるのと同じこと。今という瞬間を大切にする事が、善く生きる事なのです。



無功徳(むくどく)

〜見返りなんていらない〜

見返りを期待して良き事を行なう行為は善行ではないという事。

いい事をしたら、それを人々に知らしめて褒められたいし、何か褒美でも欲しいと思うものです。
自分にとって、何かいいことが返ってくるに違いない、とつい期待してしまうものです。

しかし、見返りを期待する行為は、本当はにせものだということ。

この『無功徳』という言葉は、善行には何の結果もついてこない、そんなものは期待しない、という意味を表わしています。
黙々と善行を行っているときの事を考えてみると、そこには計り知れないほどの充足感があると思います。そのことで す でに報われいるのです。



生死事大(しょうじじだい)

〜自身に問いかける「生」〜

生まれて死ぬ一度の人生をどう生きるか。

長生きすることが幸せでしょうか。そうでもありません。

短命で死ぬのが不幸でしょうか。そうでもありません。

問題はどう生きるかなのです。

この世において生まれたものは死に、会ったものと別れ、持ったものは失い、作ったものはこわれます。
時は矢のように去っていきます。

すべてが「無常」です無常ならざるものはあるでしょうか。

一日一日を大切にという事です。



日々是好日(にちにちこれこうじつ)

〜一日一日を生きる〜

どんな日でも毎日は新鮮で最高にいい日だという意味。

多くの人は「今日も一日よい日でありますように」と願い、無事を願う。

しかし現実はその願いの通りにはいかないで、雨の日、風の日があるように様々な問題が起き、悩ませられることばかりかもしれない。

しかし、どんな雨風があろうとも、日々に起きる好悪の出来事があっても、この一日は二度とない一日であり、かかけがえの無い一時であり、一日である。

この一日を全身全霊で生きることができれば、まさに日々是れ好日となるのである。

好日は願ってえられるものではなく、待ってかなえられるものではない。

自らの生き方に日々に好日を見出しえなければならないのだ。

時の時とするときは来ない、只座して待つのでなく主体的に時を作り充実したよき一日一日として生きていくところにこの語の真意がある。



曹源一滴水(そうげんのいってきすい)

〜すべてのものに命が宿る〜

何事においても祖雑に扱い無駄にするなという意味。

ある弟子が風呂を沸かし過ぎて水桶を運び水を入れて冷ましたのだが、水桶の余り水を、無造作にザーッと地面になげ捨てたのだ。

これを見て師は烈火のごとく怒り、「バカモノー!その水を拾え」と命じたという。

たとえわずかな水でも、庭木に注げば庭木は喜ぶ。

水を捨てるとは己の仏性をすてることに等しいことなのだ。
水を拾えというのは、今捨てたお前の粗雑な心を戒め、さらに今投げ捨てたお前の仏性を拾え、仏性を見よということなのだ。

即ち一滴水にもみ仏の命宿り、仏の命そのものであり、禅の心があるものなのだ。

こんな心が曹源の一滴水の語の中に汲み取れるのだ。

と言いながら、水ばかりでなく何事においても祖雑に扱い無駄ばかりしているこの世の中を改めなくてはいけない。



一期一会(いちごいちえ)

〜いまこの縁を大切に〜

出会いは只一度きりという刹那的な意味でなく、今日の出会いの大切さ、今という時にめぐり合った、因縁を大切にする心でもある。

茶席のことだけではない、毎日顔を付き合わせる夫婦であれ、親子であれ、互いに「おはよう」と言葉を交わすその時も一期一会なのである。



巌谷栽松(がんこくさいしょう)

〜あとの人の事を考えて〜

臨済が松を植えていたところ、師の黄檗禅師が訊ねた。

「こんな深山に松を植えて如何するつもりか」
臨済はこれに応えて「一つには山門の境致とし、二つには後人のために標榜となさん」と応えた。

即ち、一つには寺の風致 景観を整え、二つには後世の人のための道しるべとするためであると言うわけだ。

街で自分の出したものでないゴミがちらかっていたとしよう、あなたはそれを拾いますか?
そのまま見過ごしますか?
拾った所でご褒美がある訳ではありません。
しかし、その街の美観、あとから来る人の為に気を配る気持ちが大切ですよ、と言った意味。



喫茶去(きっさこ)

〜本物のもてなしの心〜

お茶を飲んでいきなさい、立場の違う人にも、全て同じおもてなしの心で接するといった意味。

好きな人や、金持ちや身分の高い人が来れば鄭重にもてなし、嫌いな人や貧しい人にはいい加減な対応をしてしまいがちである。

分別を入れず、誰に対しても計らい無く、真心から接して行きたいものである。

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